原神

キャラクターストーリーや世界任務などのネタバレに配慮はありません。
Ver3.5までのネタバレあり。3.6の情報(特にカーヴェ)公開前。

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「おい、聞いているのか!」
「……聞いている。いちいち騒ぐ必要があるのか」
「君がずっと黙っているからだろう! 大体、人の話を聞く時くらいそのヘッドフォンを外したらどうなんだ。」
「必要であると感じたらそうするさ。ところで、ここで騒いでいて、時間は大丈夫なのか? 君は俺と違い、今日は仕事だと言っていなかったか」
「うっ……いいか! 僕が戻ってきたらさっきの話の続きをしてもらうからな!」
「今更掘り返す必要を感じないが」
「君ってやつは……!」
 バタバタと部屋に戻った彼は、1つの鞄__メラック__とともに再度リビングへと現れる。そして、テーブルの上に置かれた、すでに冷め始めているコーヒーを飲み干し、カップをそのままテーブルへと乱暴に置いた。成人男性が力をコントロールせずに乱暴に置いたのに一切のヒビすらも生まれないマグカップに少し関心した。こうも乱暴に扱われるケースが生まれるとは思っていなかったが、永く使うつもりで耐久性のあるものにしてよかった。一方、どすどすと体で怒りを表現した状態のまま、彼は外への扉に手をかける。そこでようやく、視線を彼へと向ける。そこまで自分と身長に大きな差はないが、体格の関係で華奢ともいわれやすい彼は、だからといってひ弱ではない。でなければ、仕事に関連した部分に影響が出るだろう。いくらか年上の彼の背中を眺めて、体をソファに沈めた状態のまま、口を開く。
「いってらっしゃい」
「……行ってきます!」
 扉の向こうへと消えた彼を見送って、俺は再度置き去りにされたマグカップを見やる。自分で使ったものくらい、自分で片せばいいものを。そう思いつつも、重い腰を上げ、マグカップをキッチンへと持っていく。

1
 僕が俺になった時のことを、今でも覚えている。涙を流す祖母の横で、物言わぬ躯をただ漠然と眺めていた。それがたぶん、5つとか、それよりも前だったと思う。躯はそれぞれ3つの箱に入れられて、いつの前にか祖母が抱えられるくらいの小さな存在になった。涙の1つも流さない自分を見て、ひそひそ言う人もいれば、憐れむ人もいた。家族が死んだことも理解できていないと思われていたのかもしれない。それから祖母に引き取られ、祖母と生活することになった。リビングには小さな箱になった3人の写真が飾られていて、僕は祖母の真似をして毎日手を合わせた。
 写真の前で手を合わせて、祖母の持つ本を読む。アーカーシャも1度弄繰り回してみて、そこまで魅力を感じなかったので再度本を手に取る。祖母に呼ばれて食事をとって、日が暮れる頃にベッドに入る。それがいつもの1日で、子供らしかぬ1日でもある。この時期からすでに、インドア派の片鱗を見せていて、外で遊ぶよりは家で本を読むのが好きだった。だからといって、人と話をするのは苦じゃない。自分と違う観点からの話は魅力的に感じた。だから、祖母に言われて7つのときに教令院に行ったときは、すこし楽しかった。1日授業を体験して、日が暮れたころに教令院から出て、外からその建物を見やる。あまり利用されていないとはいえ、本もたくさんあるあの環境に魅力を感じたとともに、カチリと何かがはまったかのような感覚がした。あたりを見回してみて、特に変化がないことを感じて、もしかしたらアーカーシャを弄繰り回した結果、どこか壊したのかもしれないと思い、取り外してポケットに突っ込んだ。そうして家に帰って、祖母にどうだったかと聞かれてそれを答えようとして、ふといつも手を合わせている写真に目が言った。僕と同じ色合いをした子供と、2人の男女が写る写真。
「__あるはいぜん」
「どうかしたの? 
 祖母が僕を呼ぶ声がした。その声を音として認識して、ただ僕は祖母に問うた。
「アルハイゼンはどこ?」
、それは」
 2年以上もたって、僕はやっと家族が死んだことを理解した。
 発達の段階において、自分と他者を切り分けて人の死を理解できるようになるのは早くても10歳以降らしい。いや、理解、と定義するのがどこかによって年齢は左右されるので一概には言えないだろうが、人はいずれ死ぬものであり、死んだら二度と会えないとわかるのが、そのくらいらしい。
 それからしばらく、僕は部屋に引きこもった。教令院には結局行かなかった。それから、僕がどういう思考回路をしたのか、そこだけは思い出せないけれど。
、夕食の時間よ」
「……おばあさまは、アルハイゼンに会いたい?」
?」
「___なんでここに、アルハイゼンはいないの?」
、よくきいて」
「どうしてアルハイゼンはいないのに、ぼくはここにいるの」

「アルハイゼンは、どこにいるの」
 祖母が僕を抱きしめた。いつもだったら僕の手が祖母の背中に回るのに、僕の腕はそのままだらんと垂れ下がったままで。

 そうして、ぽたりと一滴が落ちた。

2
 祖母に連れられて、俺はビマリスタンを訪れた。足を弱くしている祖母の通院の付き添いだと思い込んでいたら、なぜか椅子に座らされた。目の前の医者は、柔らかい表情を見せながら、俺と視線が合うようにしゃがみこんだ。
「こんにちは。カリアと言います。君の名前を教えてもらってもいいかな?」
 祖母は少し硬い表情をしているが、目の前の医者に対して何かを返すことはない。それで、ああ、自分に聞いているのかと理解した。
「……」
 訝し気に見えれば、緊張しているのかな? と返された。祖母へと視線を向けると、祖母はゆっくりとうなずいた。
「___ゼン」
「ああ、ごめんね。聞き取れなくて。もう1度お願いできるかな?」
 医者がそういって、俺は祖母からも、医者からも目を反らして
「……アルハイゼン」
 ただそれだけをいって、俺は口をつぐんだ。医者は、その言葉を肯定も否定もしなかった。医者は俺についていろいろ聞いてきた。好きなこと、嫌いなこと、家族のこと、自分のこと。俺はそれを、俺が言うだろうという言葉を創造して返していく。そこに感情のひとかけらも乗ってはいない。
 今日はそれで終わった。外で待つように言われて、医者と祖母がなにか話しているのを後目に、持ち込んだ本を読んだ。研修医だかなんだかが1人でいる俺に声をかけてはくるが、それに特に反応は示さない。しばらくして祖母が戻ってきて、一緒に家に帰る。そんな日は、祖母が亡くなるまで続いた。
 祖母が亡くなって、葬儀のすべてを1人で行った。祖母は亡くなる前に、俺を抱きしめていった。
「あなたは優しい人間よ。どうか忘れないで。あなたはあなたなの。」
 祖母が残した財産をもってして、俺は教令院に入った。入試試験もそこまで難しいものではなく、そのまま父と同じく知論派になった。そのあと、教令院から祖母が生前、他の学院の傍聴資格を申請していたことを告げてきた。それを受けて、俺は知論派以外の授業にも入り込むようになった。そこで俺はカーヴェと出会った。紆余曲折あって共同研究を行って、最終的に喧嘩別れをした。個人的に、彼には好意を寄せていた。羨ましかった、ともいえる。だって、彼は、彼らしくそこにいたから。
 祖母が亡くなってから、ビマリスタンにはいかなくなった。時折手紙が届くが、開けたことはない。祖母の付き添いでいっていたのだから、今の俺には行く理由がない。
 教令院を卒業したのち、そのまま教令院の職員となった。純粋に、その日暮らしで生きていくことを望む性格でもなかったし、平日は仕事をして、休日は本を読んで過ごすという、平凡な日々を望んでいたからだった。だから教令院における賢者に興味は一切なかったし、自分がなにかを率いて率先して動く人間でもないことには気が付いていた。そうした結果、望んだ方向に舵を取った結果が書記官だった。書類の整理と保管のみを行って、時折出席を強要される会議においては重要事項だけを取りまとめる。その中で口を出すことはないし、場合によっては書記官補佐の人間が議事録を用意するため、そこに多大な労力を使う必要はない。だからその仕事に対して不満もない。それに、その立ち位置は自分自身を確立するのにも役立った。俺が俺であるようにと書類をごまかしても、気に留める人間はいない。

3
 学者として、知識を蓄えることも重要ではあったが、気になるものに関しての研究と論文作成は切っても切り離せないものだ。それは書記官になったとしても変わりなく、ただ論文の提出期限がなくなったというだけで学生の頃とやることは変わらない。そうしていくつかの論文を書き終えたのちに、興味はいつだかに手に入れた神の目ではなく、スメールの人々全員が持ち歩くアーカーシャと、それに関連した缶詰知識へと動いていった。書記官という立場は缶詰知識を入手するのには少し邪魔ではあったが、逆にアーカーシャの説明書やそれに関連した文書を読むには最適だった。それが結果として、旅人がやってきてから動き出す、クラクサナリデビの救出に一役買うとは研究を始めた当時は思ってもいなかったが。
 だから、アーカーシャ関連の研究がすべて没になったことに関してはすこし残念に思った。研究のすべてが無駄になったわけではないが、日の目を見ることはなくなった。けれど、逆に人々が本に手を伸ばすようになったことに関しては、喜ばしく思う。これまで人は、アーカーシャに頼り切っていて、紙の本を手に取ることはあまりなかったから。
「おおーい、アルハイゼン!」
 教令院から出て帰路につく際、大きな声が聞こえて視線を向ける。おそらく冒険者協会の依頼を片付けた後なのだろう、少し汚れた衣類を着ながらも、駆けてくる人影が1つと、そのそばを浮く影が1つ。それがこのスメールの神を救った人物であることは遠目からすぐに分かった。
「相変わらずのようだな」
「おう! アルハイゼンは仕事終わりか?」
「ああ」
「よかったら一緒に夕食はどう?」
「……いいだろう」
 2つの影、旅人とパイモンはそういうと、にっこりと笑った。少なくとも旅人は外見年齢的に酒は飲めないため、プスパカフェにでもしたほうがいいか。さらに言えば、酒場に行けばカーヴェがいる可能性もある。そう考えながら2人の後ろを歩いていけば、ランバド酒場へ足を向けていることに気が付いて、2人がいいならいいか、と気にすることを止めた。
 それから夕食を共にして、せっかくだからとこちらがモラを出した。年下に奢らせるほど、特にモラに困ってはいない。そうして、ほどほどに腹が膨れてから酒場で別れを告げた。至るところを走り回っている旅人たちのことだ、次会えるのがどこかはわからないが、機会はあるだろう。

1*
 アルハイゼンと別れた後、旅人とパイモンは1人の男性に引き留められた。彼はビマリスタンのザカリヤに似た衣類を着ており、それが医者であると示していた。
「君たちは、彼の友人かな」
 ザカリヤよりはずいぶんと年上で、時々ビマリスタンの依頼を受ける旅人たちには見覚えはなかった。彼はカリアと名乗った。
「もう10年もたつかな、彼とは縁があってね。久々に見かけて、つい君たちに声をかけてしまった」
 彼は元気だろうか、とカリアは旅人たちに問うた。
「おう! アルハイゼンは今日奢ってくれたしなー」
 パイモンのお気楽そうな言葉を、旅人は苦笑して聞いていた。
「今は代理賢者もしていて時々忙しそうだけど、初めて会った時と変わりはないと思う」
 旅人とパイモンの言葉にカリアは眉を寄せながらも、そうか、とつぶやいた。
「彼が元気ならいいんだ。でもそうか、彼は……」
 少し考える仕草を見せてから、カリアは旅人たちに礼を言った。それを見ながらパイモンは特に悪気もなく、ただ純粋にカリアに聞いた。
「なんでアルハイゼンじゃなく、オイラたちに声をかけたんだ? 知り合いだったら、声をかけたらいいのに」
「……いや、私はきっと彼に良い印象を抱かれていないからね。私は彼と信頼関係を築くことができなかった。」
「なにかあったか、聞いても?」
 旅人の問いに、カリアは首を横に振った。
「彼の友人とはいえ、個人情報を話すことはできないから。すまなかったね」
 カリアはそういうと、旅人らに別れを告げて背を向けた。方向的に、ビマリスタンへ戻るのだろう。その表情は、どこか悲し気であった。
「アルハイゼンって、どこか体が悪かったのか?」
 首をかしげるパイモンを横目に、旅人はすこし考える仕草をした。気になることは気になる。短期間とはいえ、アルハイゼンとは一緒に作戦を遂行した仲間だ。個人的な出来事に、深く関わることはよくないかもしれないが、その気になる勘について、見逃していいとも思えなかった。

2*
「うーん。アルハイゼンが体を悪くしているって話は聞かないけど」
 旅人たちはガンダルヴァー村に顔を出していた。先日の気になることを調べに、ティナリに聞きにきたのだった。偶然、セノもティナリのところを訪れており、一緒に話を聞いていた。
「ああ。ビマリスタンに行っているという話は聞かない」
「うーん。でもその人、ビマリスタンの医者だと思うんだよなー」
 腕を組むパイモンは考えるような仕草をするが、それで特になにかが浮かんできている様子は見られない。というより、ここにいる面々にとって、アルハイゼンがビマリスタン通いしているという印象がまるっきりなかった。病に無縁な人物の印象だ。結局、なにも進展がないまま時間が過ぎていくと、バタバタと誰かが走っている音が聞こえた。遠くから、コレイが誰かを呼び止める声が聞こえる。何事かと外に視線を向けると、息を切らしながらもティナリの名前を呼ぶ男性が飛び込んできた。後ろからコレイも追いかけてくる。
「どうしたのカーヴェ」
 おそらく、話し合っている師匠の邪魔をしないように止めたかったのだろう。コレイもまた、入り口までやってきてそわそわしている。ティナリがコレイに対して大丈夫だと伝えると、ほっとした表情を浮かべて仕事へと戻っていく。あとでコレイに対してなにかしら詫びをしておいたほうがいいだろう。駆け込んできた客であるカーヴェは、まだそこまで親しくない旅人らがいることには気が付かず、ティナリに詰め寄った。
「ちょっと建築におけるアイデアを聞いてほしくて___」
 そうしてから、隣にセノがいて、向かい側に旅人らがいることに気が付いて言葉が途絶えた。
「そうだ、カーヴェにも聞いてみようか」
「え? なにを?」
「アルハイゼンのこと。一緒に暮らしているんでしょ?」
「あ、ああ。というか、あの家は僕にも住む権利があるから……って、アルハイゼンがなんだって?」
 ティナリの言葉に、疑問符だけを浮かべるカーヴェ。それに気が付いているのかどうかはわからないが、旅人らの変わりにティナリとセノが説明した。椅子ももう1つ用意して、カップに注がれた紅茶を差し出され、カーヴェはとりあえず一息ついた。
「アルハイゼンがビマリスタンに? あー、たぶん通ってはいないと思う」
 カーヴェは切れの悪い言葉を返してきた。それに対して旅人が突っ込むと、そこまで親しくないが故にカーヴェは言葉を濁す。旅人とカーヴェは間にアルハイゼンを挟んでいる状態の、友人の友人といった関係だ。こればっかりはどうしようもない。けれど、ティナリとセノの後押しで、カーヴェは口を開く。
「僕も詳しいことは知らないんだ。ただ、ビマリスタンから手紙が届いていることは知っている。どうやら読まずに捨てているみたいだが」
「手紙?」
「ああ。でもその手紙、アルハイゼンが手にとってはいるが、アルハイゼン宛ではないみたいだけど」
「どういうことだ?」
「さあ……。少なくとも宛名はアルハイゼンじゃなかった。聞く前にアルハイゼンが持って行ったし、それも1度きりだったから」
 旅人がカーヴェから聞きとれた情報はそこまでだった。その日以降、旅人たちはカリアに会うこともなかったし、アルハイゼンも怪我すらしている様子もなかったことから、あの時の違和感はそのまま消えていった。


4
 クラクサナリデビ様を救出後、アーカーシャの使用が廃止され、結果としてスメール人は夢を見るようになった。そのせいか、夢に対する研究を始めた学者も少なくない。だからといって申請が多くなったかと思えば、アーカーシャが使用できなくなったことで申請が滞る学者も多かった。結果として数はさほど以前より変わりない。ただやはり、アーカーシャの使用停止は、すべてが紙での運用になったことを示しており純粋に業務時間は伸びた。さらに言えば代理賢者の役目も振られてしまい、これまでの快適な仕事環境は失われていった。などと言いつつも、できるだけ定時で終わらせるようにしている。睡眠時間と趣味の時間はしっかり取らなければパフォーマンスに影響がでる。代理賢者については辞表を出したので、そちらが受理されれば今まで通りの生活に戻れるだろう。
 日が暮れ始めた頃に帰路につく。幸い、職場と家の距離は近い。家に近づけば、中でカンタンと模型を叩く音が聞こえる。近所迷惑とも思わなくはないが、今のところ他所からの苦情は来ていない。鍵を開ければ目の前のリビングで軽快な音を出している存在に出くわした。
「……」
「……ん? ああ、おかえり」
「ただいま。なぜ部屋ではなくここでやっている?」
「あーっと……いや、すまない。」
 床には木材や紙束が転がり、素足で歩くのには抵抗ができるほど散乱していた。そちらに視線を向ければ、その惨状を作り出した本人はようやくそれを自覚したらしく、気まずそうに視線を彼方に向けた。
「明日の朝までには片付けておいてくれ。」
それだけ言って、俺はそのまま自室へと足を向ける。ガチャガチャと音を立てて片付ける様子を後目に、今日の夜は騒がしいなと1人つぶやいた。

____スメール人は夢を見るようになった。それは、俺も対象外じゃない。
 夢を見る。もうすでに顔も覚えていない両親が1人の男の子の手を握って家を出ようとしている。男の子と同じ目線で、俺はそれを見上げた。ぎゅっと隣にいる祖母の手を握る。こほこほと咳をしながら目の前の男の子に反対の手を伸ばす。男の子はその手を握って、寝ていろ、なんて言って手を離した。出かけた3人の背中を、男の子の背中を今でも覚えている。その背中を見つめて、いつも考えることは同じだ。

 なんで、そこにいるのが僕じゃないの

 そうして、いつも目が覚める。呼吸が早い。動悸を感じて、胸元の衣類を強く握りしめた。まだ日は昇っていないようで、部屋は薄暗い。ベッド横のランプに明かりをつけて、大きく息を吐いた。ここ最近はいつもそうだ。眠りはするも、夢を見て目が覚める。以前はそのあとも再度眠れるか試したが、結局ダメだったため、寝ることはあきらめた。大抵、日が昇るまでランプの明かりを頼りに本を読み、いつもの時間になってから活動を始める。朝のコーヒーを飲んで、時間になれば出勤する。変わりない風景だ。
 ____そう、変わりない風景。変わってはいけない風景だ。

3*
 いつもの時間に家を出ていくアルハイゼンを、カーヴェは自室から眺めていた。リビングに出てこなかった時点で、どうやら彼はカーヴェが起きていたとは気が付いていなかったらしい。アルハイゼンがいなくなって、カーヴェは自室から出て、リビングを一瞥した。特に変わりはない。朝飲んでいたマグカップはきれいに片付けられ、キッチンは昨日と変わりないくらいにきれいだ。
「……やっぱり」
 カーヴェはそれを見て、ぼそりとつぶやく。家の中には誰もいないため、そのつぶやきを聞くものもいないが、1人でずっとお喋りをする性格でもない。しかし、言葉を口に出すという行為は、時に状況を整理するのに使える。カーヴェはリビングから、今度はアルハイゼンの部屋の扉を開いた。相変わらず本の山が見えるが、いつもは机の上に鎮座していたそれは、ベッド横のサイドテーブルの近くに移動していた。リビングもまた、アルハイゼンの本で雑多としていることも多いが、その比ではないくらい、ベッドの周りは荒れている。それは純粋に、アルハイゼンがベッドの上で本を読む時間が増えていることを示す。
 カーヴェがアルハイゼンにリビングの掃除を言われた日、ベッドに入ったのは、日付がとうに変わってからだった。夜間であるためにあまり音を立てずにある程度の片付けを行い、リビングでひと段落をして、さてそろそろ寝ようかとしていた頃に、アルハイゼンの部屋から音がした。遮音用のヘッドフォンをしていくらいだ、音には敏感だろうと推測されるアルハイゼンが起きたのかと思って身を固くしたが、その後特に扉が開くことはなかった。しかし代わりにランプのつく音と、ペラペラと紙のめくる音が聞こえ、カーヴェは一瞬幻聴でも聞こえたかと思ったくらいだ。昼間であれば、日常の音にかき消されてしまうであろうその音は、深夜であるが故に、そしてカーヴェがそちらに集中していたが故に聞こえたものだった。基本、アルハイゼンは規則正しい生活をする。定時で仕事を終え、夕食とひと時の読書タイムを終えて、大体同じ時間に消灯する。そうして、朝もまた決まった時間に起きてくる。その時間は多少季節と天候に左右されているようで、日の出とともに起きているのかと疑うほどだ。しかし、そんなアルハイゼンが、こんな時間から起きているなんて。読みたい本がたまっているのか、とも考えられるが、そういうときは大抵、休日を丸々使っている。それでも足りないほどなのかとも推測されるが、スメールにおいて紙の本は最近重要度が上がったために、その生産は間に合っていない。鎖国が解除された稲妻からの本は増加しているが、それはある程度前のことなため、最近の出来事でもない。ともすれば、純粋にアルハイゼンは眠れていないのではないかと、カーヴェは疑った。数日前の旅人の話を思い出した、とうこともある。
それから数日、カーヴェは自身の仕事もそこそこにアルハイゼンの観察を始めた。ただ黙って後ろから見ていることもあれば、正面から普通に会話をしながらも。そうして夜にはちょっと夜更かしをしてみたり。そうすればそうするほど、違和感というものは生まれていった。たとえば夜。あの日気が付いてから、夜にまともに眠れていないようだった。そうすると睡眠時間が足りないのか、昼寝の時間が増える。元々昼寝をするタイプではあったが、その頻度が上がっていた。けれど深くは眠っていないようで近づくとすぐ起きる。あとは食事。本に熱中していても、基本3食食べていたのに、朝はコーヒーだけで済ましているようだ。昼はわからないが、夜も一緒に食事をとる回数が減った。食べていてもその量も減っている。
代理賢者としての仕事負担が大きくて、疲労しているのではないかともカーヴェは考えた。時々左側のヘッドフォンに手を当てている様子もある。アーカーシャよりも紙の本を好んでいたあのアルハイゼンが、アーカーシャがあるかのように振る舞う様子もあった。それに関しては全くの無意識なのか、アルハイゼンが気付いた様子はない。だから猶更、カーヴェはアルハイゼンが気になった。喧嘩別れをしたけれど、昔は先輩と後輩の関係で、今は住まいを共にしているだけの同居人とはいえ、教令院にいたころからの付き合いだ。疲労が溜まっているのならば休息を勧める必要があるし、目の前で倒れたら目覚めも悪い。
____ティナリに相談でもしておくか。
アルハイゼンが草神を助け出すという革命後から、アルハイゼンとセノの交流が始まって、セノ繋がりでティナリとの交流も増えた。カーヴェはもともと死域騒動でティナリと面識もあったし、それ繋がりでセノともつながった。今ではたまに4人で呑みにいくほどには、活動地域が違うわりには仲良くなっていた。ティナリは医学にも精通しているため、相談相手には適切だろう。カーヴェはそう思い立ち、鍵を手に取って家を飛び出した。

4*
「中途覚醒と食欲減退。単純に考えればストレスじゃない?」
 丁度昼食時だったこともあり、ティナリは食事をしながらカーヴェを迎え入れた。事前アポがなく、動き回っているティナリが簡単につかまったのはある意味幸運であったが、いなかったらいなかったで他のレンジャーが居場所を知っているため、ガンダルヴァー村にティナリを求めて訪れるのはいつものことであり、基本他の者もそうしている。
「他になにか症状は?」
「顔色が悪い。隠しているけど隈もある。返答までに多少間があるのは……いつものことだけど、反応が鈍いような気もする。けど眠りは浅い。」
「会話していて違和感は?」
「そこまではっきりしたものはないかな。見た目痩せたようにみえなくもないけど……」
「アルハイゼンの場合、痩せるイコール筋肉が落ちてそうだね。ほとんど座って仕事していれば仕方ないことな気もするけど」
 ティナリはそういいながらも思考を巡らせる。夜中に目が覚めて眠れない、中途覚醒と呼ばれる症状が当てはまる疾患、そして食欲が落ちる疾患。個々に考えれば対象となる体の部位は違うのだが、身体というのはすべてが密接につながっているものだ。そしてそれは精神にも影響される。最近のアルハイゼンは代理賢者となったために以前の書記官だけの時に比べたら仕事量は各段に増えている。定時退勤は変わらずしているようだから、仕事中の活動量は増えているのだろう。休みもしっかりとっているようだが、間に合っていない。何かしらの身体の障害が現れているのか、精神的なものか。過労が一番考えやすいが、仕事とプライベートのメリハリがしっかりしているアルハイゼンにそんなことがあるだろうか。
「直接会ってみないとはっきりはしなさそうだね。ビマリスタンには行ったの?」
「行ってない、と思う。というより、アルハイゼンが自覚していない。」
「自覚なし? アルハイゼンが?」
 カーヴェの返答に、ティナリは目を丸くした。自身ことは自身がよく知っている、なんて言葉を発して、呑みにおいてしっかりとアルコールをセーブするアルハイゼンが、自身のことで自覚していないなんて、と。
「ああ。1度食事について聞いたら、普段通りだと。明らかに量が減っているのに! 朝のコーヒー1杯が今までどおりの食事なわけがないだろう!」
「嘘をついているとか?」
「まさか。あいつは本当のことを言わないことはあるけど、分かりやすい嘘はつかない。本気で嘘をつくなら、何かしらの仕込みをしたうえでやるぞ」
「……まぁ、あの騒動の時に狂学者に扮したって聞いたけど、作戦の上での細工だしね」
「まて、それを僕は知らないんだが?」
「……今度、教令院の近くに用事があるから、そこで時間を作るよ」
「ティナリ、おい、その話詳しく教えてくれ!」

5
 その日、草神であるクラクサナリデビ様に呼び出された。代理賢者となって、そういうことは珍しくはない。教令院の方針について、クラクサナリデビ様から相談を受けることもあるし、逆に報告することもある。しかし、その日に限ってその場には大マハマトラたるセノの姿もあった。かの騒動以降、親しくなった間柄ではあるが仕事中に会うことはあまりない。
「呼び出してごめんなさいね。2人にお願いしたいことがあるの」
 クラクサナリデビ様はそういって、詳細を述べる。とはいうが簡単なことで、マウティーマ稠林に詳細不明の秘境が見つかり、その調査をしてほしいとのことだった。マハマトラの他、冒険者協会などに依頼してはどうかと進言したが、信用できる人に頼みたいの、と返されてしまった。セノはすんなりとそのお願いを承知していた。彼は基本、クラクサナリデビ様を妄信……尊敬しているから、異を唱えることはなさそうだが。その状態で断れば、セノから猛攻撃を受けるのはわかりきっている。だから、仕方なく承知した。それにクラクサナリデビ様は微笑んだ。そうして、2人の信用する人も誘って構わないわ、と言われる。そういわれて最初に思いついたのは旅人だ。俺とセノに接点のある人物で、ある程度信用ができるのはあの騒動に加担したメンバーだ。しかしニィロウを何度も巻き込むとグランドバザールの者の反感を受けそうでもある。ディシアはまず教令院の近くにいるかどうかもわからないし、教令院関連となると断られる可能性も高い。キャンディスはもってのほか。となると旅人になるのだが、旅人が今もスメールにいるのか定かではない。他国を行ったり来たりしている様子で、今どこにいるのかもわからない。洞天通行証を使えば旅人が持つ洞天に行けなくはないが……常駐はしていないようなので無駄足になるだろう。セノも同様の考えを持ったのかはわからないが、2人そろってクラクサナリデビ様のところから退出し、スメールシティを歩きながら、さてどうするかと考える。2人で行ってもいいのだが、その秘境がどういったところなのかわからない以上、下調べか保険がほしい。場所についてはクラクサナリデビ様から提示されているため、1度行ってみてから引き返してもいいが、そうすると時間がかかるだろう。
「ふむ……ん?」
 階段を下りながら、セノが考えるそぶりを見せた後、下の方へと視線を向けた。そうしてから声をかけられ、同じ場所へと視線を向ける。そうして、ちょうどいいな、とセノがつぶやいた。視線の先には2人の知り合いの姿がある。巻き込むに関してはやりやすさはあるが、面倒毎にもなりそうな気がしてため息が出る。こちらの様子を知ってか知らずか、セノはその2人へと声をだした。最初に1人が、そしてそれにつられてもう1人がこちらに視線を向けた。階段を駆け上がろうとしてくる2人を眺めながら、再度俺はため息をついた。そうしてからセノに声をかける。
「元素的に君が頑張ることになりそうだな」
「ふん。相性なんて最初から気にしていないだろう」
 そうして、2人にクラクサナリデビ様からの依頼を伝えれば、2人は快く了承してくれた。用事があったのでは?と声をかけるがそれに関してはすでに終わったからと言われた。そうして、マウティーマ稠林へと4人で向かうこととなった。ちょうどスメールシティを出たのが昼前、途中休憩をしながらその秘境へと向かっていく。
 それが、きっかけだとは気が付けなかった。ティナリが俺を見る視線が探るようなものだったのも、セノがクラクサナリデビ様からの依頼とはいえなんの疑問も抱いていなかったのも、たぶんこの時には仕組まれていたのだろう。カーヴェだけは、たぶん蚊帳の外だったのだろうけれど。

 ____すべて私が背負うわ。私は、私の民に幸せになってほしいの。それは、あなたも同じよ。

5*
「ちが、ちがう、ぼ……あ、おれ、おれ、は」
「落ち着いて、ゆっくり深呼吸して」
 不規則な呼吸をして、頭を抱え込んでしゃがみこんだアルハイゼンを、ティナリは目線を合わせるようにして背中をさする。ティナリの声が聞こえているのか、アルハイゼンの視線はきょろきょろと彷徨っていて目が合う様子はない。
 この秘境に入った時、アルハイゼンを除く3人は特になにも感じなかった。敵の気配もなく、ただただ目の前に扉が鎮座しているだけだったからだ。カーヴェが近づいて、その扉を調べ出した中で、アルハイゼンだけが半歩後ろへと下がった。それに気が付いたのは、位置的にアルハイゼンの後ろにいたティナリだけだった。セノがカーヴェの後に続くように扉へと近づいて、近くの装置へと視線を向ける。単純に考えれば、その装置を動かせば扉が開くのだろう。セノが手を伸ばした時に、アルハイゼンは言葉を発しようとして失敗した。迂闊に触るな、と言おうとしたのだろうか。ひきつった喉は、結果として音を出すことはなかった。それを見てティナリが待って、と前方の2人に声をかけるがそれと同時に目の前にある扉がゆっくりと開いた。
 扉の先は、どこにでもありそうな一室だった。スメールでよくみられる建築の一室。開いた扉は玄関の扉と同じ役目をしていたのだろう。まるで外から家の中を見ているかのような光景で、玄関の先にはリビングが見える。中央にはテーブルがあり、そこには写真と、小さな箱が3つおかれている。秘境にしては異質な光景に3人は釘付けとなり、1人は身を引いた。写真はまるで見てほしいかのように4人のいる方向へと向けられている。
 そこには、2人の男女と1人の老婆、そして2人の子供が写っている。
 興味を示したカーヴェが、扉の中に入っていき写真を手に取った。写真立てに入れられたそれは、仲睦まじい家族写真だった。そうして、近くの箱に視線を向けると、机の上にいくつかの紙がおかれていた。多少なりとも、カーヴェにも見覚えのある書類だ。
「死亡届、ある……アルハイゼン?」
 ぽつりとカーヴェがつぶやく。それと同時に、いまだ後方にいたアルハイゼンが声を上げた。驚いたカーヴェが後ろを向いたときには、しゃがみこむアルハイゼンとそばに駆け寄るティナリ、そして扉近くに待機しながらもアルハイゼンらの方向に視線を向けるセノの姿があった。
「ちが、ちがう。あるはいぜんじゃない、そこにいるのは、ちが」
 一体誰に対しての言葉なのか。まるで自分に言い聞かせるかのように、彼はしゃがみこんで喉を振るわせる。ティナリが声をかけるが、どうやら彼には届いていないらしい。カーヴェは今一度、写真と書類らに目を向ける。写真に写る2人の子供は、彼と同じ色合いをしている。そして、彼と同じ名前の死亡届。書かれている死亡日時は、今よりも10年以上前になっている。生きている人間の死亡届とは悪趣味な、とカーヴェは考えたが、ここは秘境だ。そういう悪趣味なものと考えれば納得できる。そうこう考えているといつの間にかセノがカーヴェの近くへと寄ってきて、写真立てをカーヴェから奪った。カーヴェが驚きの言葉を発するよりも前に、セノは写真立てから写真そのものを取り出した。そうしてそのまま裏面へとひっくり返す。そうして、セノは眉をひそめて、カーヴェは目を見開いた。

“アルハイゼン  5歳の誕生日”

 カーヴェは昔、彼から聞いた言葉を思い出した。幼少の頃から祖母と一緒だったと。祖母に育てられ、彼女が亡くなってから1人だと、教令院で出会い、研究の合間にそう聞いた。それよりも前のことは、あまり聞いたことはない。彼の父が彼と同じ知論派だった、ということくらいだ。彼のそれ以外の両親のことも、そして兄弟のことも、聞いたことはない。
 一方セノは、カーヴェが視線を向けてそのままとなっていた書類を手に取った。書類は1枚だけではなく、残り2枚が重なっており、名前に見覚えはないが連想されるに写真に写る年が近そうな男女のものだろう。では、一番上にあった書類は誰なのか。
 2人がそれぞれ考えこむ中、ティナリは第一に彼を優先した。普段とは違う様子の彼をおいて探索をする気にもなれないし、ましてや2人が探索に注力することを選んだのは、ティナリが彼のそばにいたからだろう。
「大丈夫、大丈夫だよ。」
 ティナリは彼からヘッドフォンを取り外し、声が届くようにすると一定のペースで背中をさする。過呼吸の一歩手前だ、まずは落ち着かせないといけない。呼吸のリズムを誘導するように背中をさすれば、少しずつではあったが呼吸の様子が変わっていく。それでも、彼の視線が戻る様子はない。単語レベル、しかも途切れるように紡がれる彼の言葉は、支離滅裂のようでつながっているようだった。
「ティナリ、アルハイゼン」
 カーヴェとセノがとりあえずの探索を終了して戻ってくる。2人が扉を出ると、ゆっくりとその扉は閉じていった。カーヴェがティナリと同じようにしゃがんで彼の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
「1度秘境から出よう。この状態じゃ、先に進めない」
 ティナリがそういうと、先導する、とセノが3人を通り過ぎ、来た道を戻るように前に立つ。ティナリが彼を立たせようとするが、その動きに気が付いていないのか、ついていけないのか、彼が動く様子はない。カーヴェが声をかけても同様で、視線すらもいまだ合わない。その姿が、今までの彼の姿と全く合致しない様子に、カーヴェは心のどこかでショックを受けていた。ここにいる3人の中では一番彼と付き合いが長いが、こんな様子はみたことすらない。だからつい、カーヴェは声を上げてしまった。
「アルハイゼン! いい加減にしろ!」
「カーヴェ!」
 それがマズイことであることは、カーヴェもわかっていたが、いかんせんそういう知識はないため、ティナリが止めるように声を上げた。それにピクリと、彼は反応した。
「違う!」
 それが、どういう意味だったのかは、その時の彼らにはわからなかった。
「違う、間違ってる。あれは、あそこには、」
 彼の視線が、虚ろなまま扉に注がれる。立ち上がろうとして、力が入らなかったのか、彼の身体は崩れ落ちる。それをカーヴェはとっさに支える。
「あそこにはぼくがいなきゃいけないのに」
 彼はそのまま、瞼を閉じた。カーヴェの焦る声と、呼びかけるティナリの声が、秘境へと響いた。

 一方、出口へ先導しようとしていたセノは、そんな光景を背後に一か所へと視線を向けていた。まるで彼ら4人の動向を見定めるかのように、出口のそばに1人の青年が立っている。いつからいるのか、それとも最初からいたのか。その姿はまるで、セノの知っているアルハイゼンの姿そっくりであり、そして最近のアルハイゼンとは違っていた。青年はじっとセノと、後方にいる3人を見ていた。セノが一歩踏み出した瞬間、後方でアルハイゼンの声が響く。一瞬、それに気がとられ、次の瞬間には青年はいなくなっていた。

6*
 情報を共有したい。セノはアルハイゼンをベッドに寝かした後、カーヴェとティナリに言った。
 あの秘境を出た後、最初はアルハイゼンが目を覚ますのを待ってから再調査をするか、スメールシティに戻るかを決める予定だった。しかしセノが、2人だけ話すことがあると伝え、長居ができる場所を希望した。結果として、ガンダ丘にあるレンジャーたちが利用する小屋へ身を寄せることにした。おかれたベッドにアルハイゼンを寝かし、聞かれないようにと小屋の外の少し離れた場所に3人は腰を下ろす。
「それで? アルハイゼンに聞かれたくないって……」
「今回の秘境は、クラクサナリデビ様からの依頼だということは伝えたな」
「ああ。それが?」
 ぱちぱちと焚火をいじりながらカーヴェが首をかしげる。
「俺はその時、クラクサナリデビ様に気に掛けるようにと言われた。」
 誰、とは言わなかったが、対象は1人だったため、2人はあまり気にする様子はない。セノはそのまま話を続ける。その内容は、先ほどまでの内容とつながっていないようにも最初は思えることだったが、2人は特に口をはさむことなく最後まで聞いていた。
「先日、過去の申請書を遡ることがあった。その中に、アルハイゼンが書記官に任命されたばかりの時の書類が発見された。前任者が書いたものだろう、筆跡が違っていた。その中に、当時の人事変動の記載が乗っていたのだが、そこにアルハイゼンの名前がなかった。しかし、その後の人事変動の書類は、アルハイゼンの筆跡で、書記官のところにはアルハイゼンの名前があった。不審に思ってクラクサナリデビ様に相談した結果、あの秘境を勧められた。荒治療にはなるが、おそらく答えがあるだろうと。結果としてあれが答えだとはな。」
 セノがそっと息を吐く。ティナリはアルハイゼンのそばにいたため、あの扉の先のことはわからない。そのため、カーヴェが説明しながらも状況を整理する。
「あの場所にあったのは3人の死亡届……その内の1枚にはアルハイゼンと書かれていた。写真にはそっくりな子供が2人。1人はアルハイゼンで、もう一人は」
「裏に書かれていた名前だろう。アルハイゼン、。……先ほどの書類の話だが、書記官のところに書かれていたのは、アルハイゼンではなくとあった」
「まって。ということは、僕たちの知っているアルハイゼンは、アルハイゼンじゃなくて……」
「おそらく、そういうことだろう。」
 セノの肯定に、カーヴェは言葉を失っていた。今までアルハイゼンだと思っていたし、実際彼は自己紹介の際にアルハイゼンと言った。教令院に学生として在籍していた頃から彼はアルハイゼンだった。それがまさか違うとは、誰が思うだろうか。
 一方ティナリは思考を巡らせていた。偶然だったのか、それとも必然だったのか、ティナリの元にはある程度の情報が揃っていた、揃ってしまっていた。ビマリスタンに関係があり、ここ最近はおそらく心理的な問題での不調があって、そして彼が本当はアルハイゼンではないとしたら。けれど、秘境での取り乱しは、それがばれるのを恐れているかのよう。ただ大マハマトラであるセノにバレるのを恐れているようではなく、そうでなくてはいけないとでも思っていそうな様子だった。
「……ちょっと確認したいことがある。それまでは悪いんだけど、彼のことはアルハイゼンとして接してほしい」
「えっと、どういう……?」
「どうするつもりだ?」
 ティナリの言葉に、首をかしげるカーヴェと、訝し気にみるセノ。2人の心境を察しながらも、ティナリの視線はアルハイゼンがいる小屋へと向いていた。
「確定したら言うよ。とにかく、今のアルハイゼンは不安定だ。できる限り、目を離さないようにしたい。」

6
 目を開けると、見知らぬ天井が広がっていた。普段以上に重い体を無理やり起こして、溜息が出る。周囲もあまり見覚えはないが、おそらくはどこかのレンジャー小屋だろう。ご丁寧に上着は脱がされ、タオルケットの代わりかのように腹部へとかけられている。ベッドから降りて、上着を羽織るとそのまま外に出る。記憶している太陽の位置とはずいぶんずれていることから、ある程度の時間が過ぎているのが分かる。
「あ、起きた?」
 少し離れたところに、一緒に行動していた3人の姿がある。こちらに気が付いたティナリが手招きをしてくるのでそれに従う。ぱちぱちと音を立てている焚火をカーヴェがつついていた。
「直前の出来事をどこまで覚えている?」
 セノの言葉に、首をかしげながら開いている丸太に腰かけた。自然と口元に手が向かった。
「……秘境の前までは覚えている。」
 小屋で目が覚める前のことを考える。草神、クラクサナリデビ様から秘境の調査をセノと共に依頼され、スメールシティでティナリとカーヴェに会った。そうして4人で、マウティーマ稠林にある秘境にたどり着いたのは覚えている。それから先、具体的には秘境に入った記憶はない。そう伝えれば、3人にはすんなりと受け入れられてしまった。自身の記憶に違和感があるのは否めなかったが、それがなんなのかを、俺には理解できなかった。
「あの秘境に入ってすぐに意識を失ったんだよ。それですぐに引き上げてきた。体に不調は?」
「今のところ感じていない」
「クラクサナリデビ様にはこのことを報告しよう。再調査はそのあとだ」
 セノがそういって立ち上がる。起きて早々で悪いが、動けるか、と聞かれうなずく。戦闘なしでまっすぐにスメールシティに戻るのであれば支障はないだろう。戦闘は黙って話を聞いているカーヴェあたりに任せればいい。
 特に不備もなく焚火の始末をし、そのままスメールシティへと向かう。途中、ガンダルヴァー村のすぐそばを通るが、ティナリはスメールシティに用事があったと言ってそのままスメールシティへとついてきた。そうして、ビマリスタンの近くにてティナリと別れ、家の近くでスラサタンナ聖処へと向かうセノと別れた。カーヴェとともに家の中へと入り、心のオアシスに戻ってきたことで自然と深い息がこぼれた。
「……大丈夫か? やっぱりどこか調子が」
「問題ない。……部屋に戻る」
 カーヴェの言葉を遮るようにして、俺はそのまま自室への扉を開く。後方からカーヴェの視線を感じるが、それに返事ができるほどの余裕はなかった。

____あの場所は、見られてはいけない。

 頭のどこかで、誰かが、なにかが、そう囁く。その音を断ち切るように首を振って、そのままベッドへと倒れこんだ。

7*
 アルハイゼンが部屋へと姿を消したのを見届けたカーヴェは、普段と様子が違うことを気にしながらも、ティナリから頼まれたことを遂行すべくリビングのソファへと座った。カーヴェまで部屋に戻ってしまうと、アルハイゼンが動き出したことに気が付けない。幸い、カーヴェがリビングを占領していることは珍しいことではないため、特に怪しまれることはないだろう。とはいっても、ただリビングにいるだけでは手持ち無沙汰なため、リビングに積まれた本の一角をカーヴェは崩した。その持ち主はほとんどがアルハイゼンだ。カーヴェも学者のため本を読まないわけではないが、基本自室に入る程度で収まるし、リビングに雑多に積むことはない。ぱらぱらと捲ってみればどうやら因論派学者の書いた文献のようで、知論派のアルハイゼンにしては珍しいと思った。どうやら各国の祝福の言葉をまとめたもののようで、スメールでよく聞かれる言葉もあれば、古代で使われたものまで幅広く記載され、どういう経緯をたどって変化したのか、といったものが書かれていた。歴史学や社会学を研究している因論派らしさを感じられる。
 それから、カーヴェは空腹を覚えるまでペラペラと本をめくった。日が暮れて、そろそろ明かりが欲しくなってきた頃になってカーヴェは読書を止め、キッチンへと足を運んだ。あり合わせのもので簡単なものを作る。同時にフルーツもいくつかカットし、食べやすい大きさへする。その間も、アルハイゼンが部屋から出てくる様子はない。リビングのテーブルに料理を並べて、グラスを2つ用意してから、カーヴェはアルハイゼンの部屋のドアをノックした。部屋からは音一つ聞こえず、ノックに対しても返答は得られない。カーヴェがそっと扉を開くと、ベッドの上でタオルケットが盛り上がっているのが見える。時折もぞりと動く様子から、あの後部屋に戻ってからずっと寝ているのだろう。これまでほとんど眠れていなかったことを考えればいいことなのだろうが、様子のおかしかったアルハイゼンをそのままにしていいのかとも疑問が浮かぶ。しかし結局、カーヴェはそのまま声をかけずに扉を閉めた。そうして自身のみ食事を済まして、アルハイゼンの分はそのままテーブルへと置いたままとした。起きてきたら食べるかもしれないという親切心からだった。そうしてカーヴェは、今日の疲れをいやそうと、ひとまずはシャワーを浴びることとしてリビングからいなくなった。

「君が、ティナリ君かね」
 ティナリはあの後、ビマリスタンを訪れ、とある人物を尋ねにいった。旅人から聞いた名前と、アルハイゼンの名前を出すことで、彼とは容易にコンタクトがとれた。
「あなたがカリアさん……。初めまして、ガンダルヴァー村でレンジャー長をしているティナリといいます。」
「ああ。初めまして。」
 2人は手を合わせた後、ビマリスタンの一室を借りて話をすることとなった。ティナリが彼に、カリアに会ったのは彼が主治医をしていたアルハイゼンについてだった。
「単刀直入にお話します。アルハイゼンの、いいえ、“”について知りたいんです」
「……君は、彼の」
「友人です。少なくとも僕はそう思っています。最近、彼の様子がおかしいんです。彼の精神状態はひどく不安定で、それが身体にまで影響が出ています。代理賢者としての仕事も関係しているのでしょうが……、僕は友人として、彼にできることがしたい」
 ティナリの言葉に、カリアは少し考えるそぶりをみせた。そうして彼は立ち上がると少し待つようにティナリに言った。1度席を外した彼は数分のうちに戻ってきて、手元には一冊のファイルを持っていた。
「君は医学に精通しているようだ。患者の個人情報取り扱いについても理解はあるかな」
「ええ。個人が特定される情報を第三者に漏らしてはならない……。ですが、医療者間においては必要に応じてその情報が共有されることがあります」
「そう。私は君を、医療者の1人としてこの情報を提供しよう。決して、第三者に漏らさないように」
 カリアはそういってファイルをティナリへと渡した。ティナリがそれを開くと、どうやらそれはビマリスタンで使用されているカルテのようだった。最初に名前や住所などの個人情報が記載され、検査結果や医師記録が続いていた。カリアはティナリが読み始めた横で開かれたページの補足をするかのように口を開いた。
「彼が最初にビマリスタンに来たのは、彼の祖母が異変に気が付いたからだ。彼の両親と兄が亡くなって2年ほどが経っていた。彼の発達段階が、人の死というものを理解したのだろうと推測される。それから彼は、彼と祖母が思い浮かべる彼の兄を模倣するようになったようだ。まるで自身が兄であるかのように振る舞うようになって気になった祖母が自身の受診とあわせて彼を連れてきた。
 彼は初診の時点で、自身を兄だと思い込んでいた。彼が名乗った名前は、その時すでに兄のものだった。それから彼の祖母の受診にあわせて彼も受診したが……結果は乏しかった。私は彼を、解離性同一性障害と診断した。彼は両親と兄の死が心的外傷となり兄を別人格として構築したのではないかとね。」
「彼がここに来た時すでに、解離性同一性障害だったんですか?」
「わからない。彼は自身の名前すら理解できていなかった。“”と呼んでも彼はその言葉を聞くと首をかしげていた。彼の祖母も、彼を呼ぶのに苦労したという。最終的にその診断をしたが、最初の頃は別の病気だった可能性もある」
 ティナリはカリアの言葉を聞きながらカルテをめくった。そこには医者と当時のアルハイゼンと、そして彼の祖母との対話が書かれている。しかしその内容のほとんどが医者と彼の祖母によって構成されており、当時のアルハイゼンの言葉はそんなに多くない。今の性格から考えてみると、もともと多弁ではないしひどい違和感は覚えない。しかしそれは、“”であった頃の彼を知らないから、ともいえる。
「彼は彼の祖母が亡くなってからここに来ることはなくなった。時々手紙を送っていたが、返事をもらえたことは一度もない」
「同居人曰く、捨てていたようです。中にはなにを?」
「彼に受診を進める内容を。ただおそらく、その手紙を彼は自分宛だと理解していないのだろう。私は宛名を“”にしていたからね」
 ティナリはそこで、少し引っ掛かりを覚えた。アルハイゼンは自分に関係しないことにはあまり関心を見せないし、他者に対して友好的でもない。けれど、他者宛の手紙を簡単に捨てるだろうか。宛名を間違えた、とか本来の宛先主がいると考えないだろうか。アルハイゼンはその手紙がその宛名であっていると認識したうえで、捨てていたとしたら。
 解離性障害は心的外傷のきっかけである出来事の記憶や感情を切り離して思い出させなくすることでダメージを回避しようとして起こる障害の1つだ。アルハイゼンの場合、両親と兄の死がそうなのだろう。けれど、解離性同一障害は解離性障害の中でも重症とされて、切り離した記憶や感情が別の人格を形成し、それが表に出てくるものだ。アルハイゼンの場合、両親と兄の死という出来事を自覚してすぐの場合、切り離した結果すぐに別人格を形成したとは考えにくい。もしそうだとしても、その場合は“”を主人格としてアルハイゼンが生まれるか、アルハイゼンが主人格を乗っ取るかのどちらかで、”“という存在が消えるわけではない。
「……ありがとうございました。」
 ティナリはカルテを閉じるとカリアへと返した。もういいのか、という彼の言葉にうなずく。
「もしかしたらまたなにか聞きに来ることがあるかもしれませんが」
「ああ。いつでもくるといい。私も、彼のことは気がかりだったんだ」
 ティナリがビマリスタンを出た頃にはすでに日も暮れ始めていた。このままガンダルヴァー村に戻るにしては遅い時間だ。ティナリはひとまずセノの家へ泊めてもらおうと彼の家へと向かうこととした。

「クラクサナリデビ様、あの秘境は一体?」
 セノはスラサタンナ聖処にてクラクサナリデビに対面していた。彼女はセノからの報告を聞いた後に彼の疑問へと答える。
「あそこは過去の記憶を映し出すところよ。その人がこれまで歩んできた道筋を示すもの。実を言うと足を踏み入れた者の中からランダムなのだけれど、その様子だときっかけとなるものは見ることができたようね」
 彼には悪いことをしただろうけれど、と彼女は少し眉を下げた。
「クラクサナリデビ様は、アルハイゼンとその両親らのことは……」
「知っているわ。といっても世界樹から得た情報も含まれているのだけれども。彼が、がアルハイゼンという名前を使っているのもね。それについて黙認しているのは私だもの」
「黙認」
「ええ。だって情報改ざんでしょう? アルハイゼンが作る書面は少なくないわ。承認する書類も多い。彼が携わったものすべてが“アルハイゼン”によるものであればそれはすべて誤りであって訂正すべきものだわ。私が確認している事柄に関しても同様よ。それについて、マハマトラは審判をする必要があるかしら」
 彼女の言葉にセノは考えるそぶりを見せる。禁令には触れない。しかし、見て見ぬふりをしていい内容ではない。他の人物の名前を使用するという行為は普通であれば文書偽造にあたる。到底見逃していい行為ではない。のだが。
「情報が不足しているかと」
「ええ、そうね。本当であれば彼本人から詳しい話が聞けるといいのでしょうけれど。でもね、そろそろ彼は向き合う必要があるわ。

____その時は、あなたたちが彼を支えてあげてね。」

 クラクサナリデビはそういうと、セノに今日はもう戻るようにと伝えた。納得はしていないが、このスメールにおける最高峰の人物である草神の言葉だ。セノは一礼をするとスラサタンナ聖処を去っていった。
「いいのかい? もしかしたら書記官がいなくなってしまうかもしれないのに」
 セノを見送ったクラクサナリデビに対して、ちょうどセノから死角になっていたところから声が聞こえた。それに対して、彼女が驚いた様子は見せない。
「私は、スメールの民には幸せであってほしいの。それにはアルハイゼンとも含まれているわ。彼らの苦しみが少しでも和らぐようにしたいの」
「……ふうん」
 声の主はどこかつまらなそうな返答をして、その場から去っていった。クラクサナリデビはそれを見送ってから後方へと視線を向ける。
「あなたの望むような結末になるかしら」
「さあ。だがいい加減、このようなことは終わりにするべきだ」
 神の視線の先には、人影ひとつない。しかし影に隠れるように、なにかはそこにいた。なにかはそれだけを神へと伝えるとすうっとその気配を消した。
7
 いかないと。見られてはいけない。知られてはいけない。頭の中で声が響く。1度ベッドにはいってその意識は夢へと沈んだが、夢の中でも声が聞こえる。目を覚ましたとき、部屋はもう暗くなりはじめていた。そっとベッドから降りてリビングへと続く扉を開く。リビングには明かりはついていたが人影はなかった。テーブルにはカーヴェが用意したのだろう料理が並べられている。遠くから水の音がしているため、たぶんシャワーでも浴びているのだろうか。そのテーブルを横目に、僕の足はそのまま外へと続く扉へと向かう。頭に響く声が、僕を外へと招く。背後で音が聞こえて、心臓が跳ねたと気が付いた瞬間、僕は外に駆け出した。日が暮れたスメールシティの中をかける。これが昼間であったら、教令院の人間が驚いた表情を見せたかもしれないが、暗闇は見られたくないものを隠してくれた。
 そのまま僕は昼間歩いた道を逆走する。スメールシティを出て早々に風の翼を広げていくらかの崖をショートカットした。行先はきまっている。遠回りも、迂回も必要としていない。まずはいち早くあそこにたどり着く必要がある。そうしてどのくらいの時間が経ったかもわからず、僕はあの秘境の前にいた。普段であれば体力が切れているであろう距離を走り切って、体は休息を必要としていた。けれど僕の心がそれを感じ取れず、僕はそのまま秘境の扉を開いた。
 秘境の中は、昼間に見た光景と同じだった。少し歩いた先に扉があり、その先には見覚えのある一室が見える。過去、祖母と暮らしていた家だ。スメールシティに位置しているとはいえ、隅っこのほうだったためすでに退去し、今現在は別の者が使っているはずだ。けれどその光景は、僕の幼少の頃にそっくりだった。
「君は一体なにがしたかったんだ」
 人の声がして体がびくついた。いつの間にか、目の前には1人の男がいた。僕と同じ背丈、衣類もほぼ一緒。同じカラーリングの髪。健全に育っていればそうなっているだろうと思える恰好。
「……ある、はいぜん」
「君は、俺を模倣して何がしたかった」
 目の前の男は、僕の兄は、そういってじっと僕を見つめた。幻覚だと思った。僕の知っている最後のアルハイゼンは、あの日両親と一緒に出掛けていった、まだ一桁の年齢の頃の姿だ。それが、二十歳越えの姿をとっている。妄想だ、と思いたかった。は、と息だけがこぼれた。
「君の精神状態は普通じゃない。身内の死をきっかけとして精神が不安定になるケースは珍しくはないが、それを10年以上引きずっている。ビマリスタンの治療もまともに受けず、自己判断での治療の中断。アーカーシャを使用しての自己の捏造。君のその強迫観念はどこから生まれている?」
「そん、なの」
 アルハイゼンは淡々と述べる。それに対して、僕からでる答えは一つしかない。
「アルハイゼンがいないから」
 ずっと一緒だった。生まれてからあの時まで、いつも一緒にいた。文字が読めるようになってからほとんど本を読んで過ごすようになったアルハイゼンと、そのそばでいつも横になってそれを眺めていた。家族で出かける時も、常に手をつないでいたし(これは子供の迷子防止も兼ねているだろうけれど)、家でも外でも一緒だった。
 なのに、あの日だけは違っていた。
 僕が風邪をこじらせて、一方アルハイゼンは一足先に回復した。元々両親と一緒に出掛ける予定になっていたのに、僕は風邪が治らなかったから祖母に預けられた。アルハイゼンと一緒にいたくて手を伸ばしたのに、アルハイゼンは僕を置いていった。
「アルハイゼンがいないって、わかってしまったから。ずっと、いると思っていたのに」
「……それだけで?」
「僕にとってはとても大きい」
「理解できないな」
「これは僕と君の感性の違いだ」
 僕はアルハイゼンの胸元に手を当てた。霊という存在は地域性があって様々だが、基本触れることはできない。しかし触れた手からは暖かさを感じて、まるで本当に目の前にいるように感じられて。僕はそのまま体をアルハイゼンへと近づけた。
「アーカーシャがあったとはいえ、“どうしてアルハイゼンの模倣ができたのか”なんて、見た事もない“成長したアルハイゼンの姿がなぜ想像できるのか”なんて、僕は考えたくもないし、知りたくもない。」
 この状況には不明点がいくつもある。その筆頭が目の前のアルハイゼンの存在で、そして今まで僕がアルハイゼンであったこと。それを利用して都合のいい状況を作り出して過ごしてきた。それがくずれたのは、きっとこの秘境だろう。そして、そこに誘導した、
「アルハイゼン、僕は」

__後ろで、秘境の扉が開いた。終わりを告げる音だ、と心のどこかで感じた。感じてしまった。

8*
 カーヴェがシャワーから出たとき、まるで慌てるかのようにふわふわと浮いているメラックが最初に目に入った。音を発しながら玄関の近くをうろうろしている。カーヴェが首をかしげていると、メラックはカーヴェがシャワーから出てきたことに気が付いて、ピポ、といつもの音を出して近づいてきた。そうしてカーヴェと玄関の間をいったりきたりし始める。カーヴェが最初、どういうことかと考えてからまさか、とつぶやいて玄関ではなくアルハイゼンの部屋へと続く扉を開けた。大きな音がした。普段であれば怒られるくらいの音だ。しかしその扉の先に人はいなかった。乱雑にどけられたタオルケットがくしゃくしゃに丸められている。いくら見回しても、その部屋の中に彼はいなかった。カーヴェは速やかに家の中を一通り確認し、もう一人の住民がいなくなったことに気が付く。どうやらメラックはその様子を見ていてカーヴェにいち早く知らせたかったらしい。カーヴェは適当に部屋着の上から羽織れるものをつかんで家を飛び出した。メラックが機械音を鳴らしてくれたため、メラックも忘れずにつかんだ。外はすでに暗い。アルハイゼンがどこに行ったのか、なんてまったくもってわからない。ダメ元で元素視覚を展開してみれば、うっすらと草元素の道筋が確認できる。しかし、このスメールシティには草の神の目を持つものはカーヴェも含め少なくないし、このスメールの神も草元素をまとっていることを考えるとあまり宛にはならないだろう。しかしその元素がスメールシティの外につながっており、その方向が、今日の昼間に歩いた道に酷似していることから、カーヴェは薄い期待を胸にその元素を追うこととした。
そうして元素を追った先。カーヴェが秘境にたどり着いた時、そこには2人の人影があった。1人はアルハイゼン。そしてもう一人は、アルハイゼンに瓜二つの青年だった。アルハイゼンは青年に縋り付いていた。カーヴェから見ると背中を向けているため、その表情はわからない。青年はカーヴェの存在に気が付くとゆっくりと視線を向けた。
「どうやら迎えがきたようだ」
 声色はアルハイゼンより低く、それがアルハイゼンと別の存在であることを知らしめていた。青年はアルハイゼンの肩をつかんで身体を引き離すと視線を合わせた。
「もういいだろう。君の行為は、すでに破綻している」
 アルハイゼンはなにかを言おうとして口を開くも、は、と息だけがこぼれた。それに青年は気に掛ける様子もなく言葉を紡ぐ。
「最初から、君は君であるべきだった。アーカーシャがなくなり、俺の模倣ができなくなって、君はただ苦痛を感じるだけとなった。いつかは崩れるものであると理解していたはずだ。君を知る者がいなくなったとしても、綻びはいつか露見する。」
 青年はアルハイゼンの身体を押した。アルハイゼンはその動きに対応できずそのまま地面へと尻もちをついた。からん、と上着にかかっていた神の目が落ちた。
「“もしも”の世界などは存在しない。君は、いい加減夢から覚めるべきだ」
 草の神の目が青年の手に渡る。神の目は一瞬ひときわ輝くとその色を失った。神の目が色を失うときは、持ち主がいなくなったときだ。
「____アルハイゼン」
 アルハイゼンは、否アルハイゼンと名乗っていた青年は、目の前の青年を見上げた。目の前の青年は、アルハイゼンは表情一つ変えず、青年を見下ろす。
「君は、君らしくあるべきだ。____
 アルハイゼンはそういって、ふっと煙が掻き消えるかのように姿を失った。持っていた神の目が再度床に落ちる。その音が響いてから、カーヴェはやっと青年へと近づいた。
「……その、なんて言ったらいいかなんてわからないけど」
 カーヴェはしゃがんで青年の背中を支えた。びくり、と青年の身体が跳ねるがそれに対して特に反応は示さない。
「少なくとも、教令院で一緒に研究して、今僕と一緒に暮らしているのは君だ。アルハイゼンとか、とか、君の名前がどれかという問題ではなく、僕は君と今まで過ごしてきたんだ」
 だから、その、とカーヴェが言葉を選ぼうと思慮しているとぐっと青年をさせていた腕へと重みを感じた。青年が背中を倒して、カーヴェの方へと重心を変えたようだった。
「……わかっている。僕はアルハイゼンにはなれない。僕は僕で、アルハイゼンとは別の存在だから。」
 青年は、はそういいながら視線を地面へと落とした。ぽろり、と涙がこぼれる。
「ごめん、ごめんなさい。カーヴェ先輩」
 そうして声を殺して泣く後輩の背中をカーヴェはさすった。
 カーヴェから見て、今まで見ていた彼の姿とは雲泥の差だった。しかし、どちらも彼を形成するものでもあった。今までの、教令院でみる書記官としての彼と、いまここで泣いている後輩の姿は関係性の薄い者からしたらあまり連想できないかもしれない。カーヴェからは、これまでの彼と先ほどの彼をみて、やっと本当の姿を出せたのだと少し羨ましく見えた。
「帰ろう」
「……うん」
 が落ち着くのを待ってから、カーヴェはを支えて立ち上がった。はそれにつられて、色を失った神の目をつかんで身体を起こす。そうして2人が並んで秘境を出ると、少し離れたところから2人を呼ぶ声が聞こえた。
「カーヴェ! アルハイゼン!」
 声の主であったティナリは、後方にセノを従えて、駆けてくる。おそらくスメールシティから急いできたのだろう。外はすでに明るくなっており、2人が家を出てから時間が経っていた。
「家に行ったらいないんだもん。探したよ」
 ティナリはそう言って気持ち俯いていたへと視線を向ける。腫れぼったい目を見て、大丈夫? と声をかけられ、は頷いた。そうこうしているうちにセノが3人へと合流する。の視線が、ティナリからセノへと移った。
「……大マハマトラ」
 セノは黙ってを見つめた。その空気の重さに、カーヴェが耐え切れなくなって声を出そうと思った頃合いになって、は再度口を開いた。
「君は、僕を裁きの対象とするか」
「……それはこの後の尋問次第だ。」
 セノの返答に、はそう、とだけ返す。そのまま、セノは踵を返して秘境まできた道のりを戻る。
「ええっと?」
「……そ、そうだ。君はどっちの名前で呼ばれたいんだ?」
 状況がつかめず首をかしげるティナリを横目に、とりあえず現在の状況をどうにかしたくてカーヴェは口を開く。それを聞いてはぱちぱちと瞬きをした。
「どっち」
「だから、君の本当の名前はなんだろう? けど、通名はアルハイゼンになっている。仕事に支障が出るなら今まで通りのほうがいいのか?」
 カーヴェの言葉で、ティナリは今のの状況を理解した。表情や反応が今までと違っており違和感があったが、これが彼本来の性格なのだろうと。一方、はカーヴェの言葉を聞いて思考を巡らせていた。というより、あまり考えていなかった。真実が露呈した時点で、“アルハイゼン”という名前で呼ばれることはないだろうと思い込んでいたからだった。
「……どちらでも。でもできれば」
 はカーヴェとティナリ、そして前方にいるセノへと順番に視線を向けた。
「できれば、、と。3人には、ほんとうの僕を知ってほしいから」
 そういって、は表情を緩めた。

8
「ひどい抜け道だな」
「そう? 結果としてよかったじゃない」
 スメールシティの酒場にて、3人の青年が酒を手に雑談している姿が見える。呼び出されてきてみれば、すでに勝手なことを話し始めているらしかった。
「クラクサナリデビ様にはすべて見抜かれていたということだ」
 全員アルコールに酔っているようだが、比較的弱いカーヴェがつぶれていないところをみるとまだ始まったばかりのようだ。
「……何の話だ?」
「遅いぞ
 カーヴェの言葉を無視して椅子に座る。君のことだよ、とティナリが言った。
「通称名をうまく使ったな、と。」
「ああ、それのことか」
 追加の酒を注文しながら、話題となっていた事柄を理解する。
「その身分が明らかであるならば、通称名による署名は有効と判断する。僕の場合、年数からして通称名の認知度は十分だった。」
「だけど、本来なら通称名での法的文書作成はダメだろう?」
「バレなければいい」
「ええ……?」
の言葉は冗談として、今回の場合はクラクサナリデビ様が了承した。あとは代理賢者と大マハマトラの立場をもって法を変える」
「職権乱用って言うんじゃないのかそれ」
「前任の賢者よりはかわいいものだろう」
「……聞かなかったことにするね」
 いまだ教令院の中枢にいる僕ら2人と、逆に離れた2人の間に小さな溝ができた気がした。あの時点では違法だったけれど、今は合法になった。合法になったおかげで、教令院での通称名の使用が、名前変更における実績につながるのは望んでいた者にとっては喜ばしいものだろう。
「って、ティナリだって関わっているんだろう」
 ぐいっと酒を飲みながら、カーヴェはティナリへと視線を向けた。それにティナリは首をかしげる。
「え、なんのこと?」
 検討が付かず首を傾げるティナリ。ティナリは一端に関わってはいるが自覚はないだろうし、それにまつわると悟らせるような依頼はしていない。
「……診断書。ティナリに以前、診断書を頼んだだろう」
「ああ、あれ? でもあれってしばらく休暇をとるため、に」
「ティナリをどう説得したのかとおもったらそういうことか」
 精神疾患を証明するための診断書。ビマリスタンにて当時主治医をしていた者に頼もうとしたが、ティナリが詳細をすべて知ったらしいということを聞いて、依頼するものをかえた。当時の主治医は、すでに前線を引いていたというものある。なので今の僕の精神状態を把握してケアをする主治医はティナリになった。とくに僕からしたら必要としていないのだが、ティナリはそうは思っていないようで定期的に会っている。
「ちょっと、もしかして嘘ついたの」
「提出先が教令院なのに変わりはない。前任が解離性同一性障害と診断していたのは功を奏した」
「ちょっと?」
「嘘をつく場合、少しの真実を交えておくといい」
「ティナリ、彼がなにかを頼んだときは怪しんだほうがいい。都合のいいようにやられるぞ」
「……そうだね、カーヴェの言葉が身に染みたよ」
 ティナリがあきれた声を出す横で、僕は酒に手を伸ばす。カーヴェのように泥酔するまで飲むほど酒は好みじゃないが、たしなむくらいはする。けれど今日くらいはと、つまみとともに3人の話す言葉を御供にグラスを傾ける。
 これが、今の僕の最後の晩餐だ。



 世界は大きな樹のように育ち、そうして枝分かれしていく。今いる世界がどれだけ枝わかれした結果かは誰にもわからない。枝分かれした先の未来を、人は “もしも”の世界ともいう。今の現実とは別の可能性を探り、そうしてもしもの世界を夢見る。けれど、今いる現実が夢ではないという証は一体どこにあるのでしょう。もしかしたら、いまこうして過ごす世界すら夢の中かもしれない。その証明は、夢から目覚めるまでできるものではない。

だから、そう

____おはよう。わたくしの、スメールの民よ。夢から覚めるときがきたわ。

2023/6/9

アルフェス(デフォルト名):アルハイゼンの双子の弟。アルハイゼンがいなくなって、自分がアルハイゼンに成り代わった。解離性同一性障害のつもりだったけど強迫性パーソナリティ障害の方が近いのかも……。なにかしらの精神疾患は持っている。祖母はそれに気が付いてビマリスタンに連れて行ったが、精神療法の効果は得られなかった。カリアは主治医。自身がアルフェスであるという証拠を無意識で消している。書類関連は偽装した。手紙はアルフェス名義でくるのでそのまま捨てている。ただ本来のアルハイゼンよりは他者に興味があるしやさしさがある。他者との対話は好きだが、アルハイゼンがあまり好きじゃなかったので好きじゃない。知論派になったのもアルハイゼンだったらそうするだろうと思ったから。本当は歴史とかに興味があるので因論派より。アルハイゼンだったらどうするか、というのが行動原理。カーヴェに関してはたぶんアルハイゼンよりは友好的。家の権利がカーヴェに残っているほどには。本筋は原作通り遂行できた。

補足:死亡届は日本では火葬時にはすでに提出済みなので遺骨と一緒に残っていることはないです。あるのは埋葬証明書。ただわかりにくいし、スメールが同じだとは限らないので死亡届としました。各国の冠婚葬祭についてしりたーい
通称名については完全捏造です。日本では通称名を本名にすることはできるけれど、通称名で署名とかすると場合によっては法に触れます。特に国に出す書類とか。ミドルネームとか、ファミリーネームがスメールでどうなっているかわからんかったのでこうなりました。けれど、“とても都合がいい結果になりました”ね。

アルハイゼン:アルフェスは夢を操作できない。アルハイゼンが両親についていったら、とういうもしもの世界。なんでアルハイゼンは両親についていったんでしょうかね?



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